布施の心がけ 難陀(なんだ)の聞法|仏教の教え
さて、「布施」(ふせ)について、お話していました。
「布施」とは、施しのことですが、
布施にも大きく「財施」と「法施」の2つに分けられます。
今回は、「財施」についての2回目です。
前回は、施した人が恵まれることをお話しました。
「だけど、お金なら、金額が高いほうが、
それだけ功徳もあるんでしょう?
俺は、貧乏だしなぁ……」
と思うかもしれません。
そんな疑問にお答えしておきましょう。
財施の功徳は決して、その量の多少で決まるのではありません。
心こそ大切だと教えられます。
一つのエピソードを何回かに分けて紹介します。
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とっぷり陽が沈み、冷たい闇が辺り一面を覆い始めた。
たくさんの灯明で照らされた精舎(=寺院)が、闇夜にぼうっと浮かび上がる。
目指す先がようやく姿を現して、難陀(なんだ)は疲れ切った体を励まし、
歩みを速めた。
初めてお釈迦さまのご説法を聞きに来た彼女は、
ふだんは物乞いしながら足を棒にしている。
たまたまこの日は、親切に食事を施してくれた人が、
お釈迦さまの法座(法話の御縁)を教えてくれた。
その人の幸せそうな笑顔に魅了され、
哀れな女乞食はこの郊外まで足を運んでみる気になったのだ。
ようやく精舎にたどり着くと、あたたかな灯明が香気を放つようにきらめいている。
富豪が喜捨(きしゃ:財施)した絢爛(けんらん)な灯台や、
街の人々が布施した明かりが思い思いに瞬いて、
まるで別世界へ来たような気分になる。
美しさに見とれていると、遠くにほのめく台座に仏陀がお出ましになった。
初めて拝見する尊姿に何かを感じ、彼女は頭を深く垂れる。
深い響きを持つ、そのみ声をもって説かれる教えに、難陀は聞き入った。
そしてわが身の来し方を、振り返らずにいられなくなった。
生まれついての貧乏暮らし。
生きる意味どころか、働く術(すべ)も分からず、
人様の慈悲にすがって、口を糊する(=やっと暮らしを立てること)毎日を
送ってきた。
生活の不安はいつも心の重石となり、何も恵まれぬ日は胸が締めつけられる。
明日も明後日も金輪際、食事にありつけぬのでは、と
行く末の不安とひもじさ、惨めさで眠れなくなるのだった。
食べるためだけに生きる日々に心はいつも闇。
一日として安らかに過ごしたことなどなかった。
"こんなにまでして、どうして生きなくてはならないの?"
絶えず叫んでいた彼女の心に、
「男女貴賤(きせん:身分の上下)を問わず、
すべての人が平等無上の幸福になれるのだ」
お釈迦さまの説法は深くしみ入った。
「人はただ生まれ、生きているのではない。
先が見えず、胸つぶれるような日々にも、
この教えを聞き、救われるという意味がある」
声に出してみて、改めて彼女は心が熱く震えるのを感じた。
同時に、"どうにかこの教えを求めたい"。
突き上げるような願いが生まれた時、お釈迦さまの教えが胸に迫った。
「この法を求むる者、常に布施を心がけよ」
“……布施?
施すこと?
何も持たない私はどうすればいいの?
でもお釈迦さまを慕い、真実の法を求める一人として、
何か──そう、この精舎に輝く灯明の一つでもいいから、
仏法のために施してみたい”
帰る道すがら、前を行く人の気配を頼りに彼女は、
真っ暗な道にじっと視線を落としつつ、
どうすれば仏陀に灯を布施できるか、考えながら歩いた。
その目は道をとらえながら何も見ていない。
それほど何か一つに専心し、思慮を巡らすのは、これまでの彼女にはなかったこと。
帰り着いて床に入るまで、それは続いた。
続きは布施の心がけ2へ。