お悩み
どういうわけが人が離れていきます。少し親しくなったと思うと、無視されたり、連絡がとれなくなります。何か自分に問題があるように思いますが、わかりません。まず何から心がけていけばいいのでしょうか。
お答え
仏教では、底の知れない欲の心や、怒りの心、うらみやねたみの愚痴の心が、苦しみを生み出していると説かれていますが、これらの心をさらによく見ていくと、その本性は、「我利我利」(がりがり)であるといわれます。
我利我利とは、自分さえよければ他人なんてどうなってもよい、という心です。
相手を踏みつけても、自分だけが儲かりたい、認められたいという心です。
バーゲンセールに行けば、人を押しのけてでも、欲しい物を手に入れようとします。
電車のドアが開くと、空席めがけて、われ先にと乗り込みます。
その時の心を見てみますと、情けないかな、自分さえよければいいという状態で、周りのことを全く考えていません。
腹が立ったり、うらんだりしている時は、相手のことを思いやろうという気持ちには、もうなれないでしょう。
我利我利(がりがり)の言動をとると、必ず、周りの人に、「あの人は思いやりのない人だ、自己中心的な人だ」と思われますから、信頼されたり、尊敬されたりすることはないでしょう。
それどころか、嫌われたり、うとまれたり、憎まれたりしてしまいます。
ですから、自分さえよければよいという考えでやったり、言ったりしたことは、結局、自分自身を苦しめ、相手も傷つけてしまうのです。
お釈迦さまは、
「幸せになりたければ、相手を思いやりなさい。相手の幸せを思いやって、かけた言葉や行動は、必ず、あなた自身への思いやりとなって返ってきますよ」
と教えられています。
これを、「自利利他」(じりりた)といいます。利とは幸せという意味ですから、相手の幸せを思いやるままが、自分が幸せとなるということです。
自利利他(じりりた)を心がけるか、我利我利(がりがり)のままで生きるか、これが幸せと不幸せの分かれ道なのです。
このことを分かりやすく教えた話があります。
昔、ある所に、地獄と極楽の見学に出かけた男がいました。
最初に、地獄へ行ってみると、そこはちょうど昼食の時間でした。
食卓の両側には、罪人たちが、ずらりと並んでいます。
「地獄のことだから、きっと粗末な食事に違いない」と思ってテーブルの上を見ると、なんと、山と盛られた豪華な料理が並んでいます。
それなのに、罪人たちは、皆、ガリガリにやせこけています。
「おかしいぞ」と思って、よく見ると、彼らの手には非常に長い箸(はし)が握られていました。おそらく1メートル以上もある長い箸でした。
罪人たちは、その長い箸を必死に動かして、ごちそうを自分の口へ入れようとしますが、とても入りません。イライラして、怒りだす者もいます。それどころか、隣の人が箸でつまんだ料理を奪おうとして、醜い争いが始まったのです。
次に、男は、極楽へ向かいました。
夕食の時間らしく、極楽に往生した人たちが、食卓に仲良く座っていました。
もちろん、料理は山海の珍味です。
「極楽の人は、さすがに皆、ふくよかで、肌もつややかだな」と思いながら、ふと箸に目をやると、それは地獄と同じように1メートル以上もあるのです。
「一体、地獄と極楽は、どこが違うのだろうか?」
と疑問に思いながら、夕食が始まるのをじっと見ていると、その謎が解けました。
極楽の住人は、長い箸でごちそうをはさむと、「どうぞ」と言って、自分の向かい側の人に食べさせ始めたのです。
にっこりほほえむ相手は、
「ありがとうございました。今度は、お返ししますよ。あなたは、何がお好きですか」
と、自分にも食べさせてくれるのです。
男は、「なるほど、極楽へ往っている人は心がけが違うわい」と言って感心したという話です。
同じ食事を前にしながら、一方は、オレがオレがと先を争い傷つけ合っています。
もう一方は、相手を思いやり、相手から思いやられ、感謝しながら、互いに食事を楽しんでいます。
どちらが幸せかということは明らかなことです。
「自分さえよければ」では、幸せになれません。
幸せの花は、相手と自分との間に咲くからです。
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