お悩み
人命は地球より重いとか生命は尊厳だといいますが、自分の命にそんな価値があるとは思えません。むしろゴミみたいなもんじゃないかと。
生きているだけでまるもうけだ、生まれてきたことに感謝しろといわれても、こんな紙切れみたいなうすっぺらい自分がここにいることに何の感謝をすればいいのでしょうか。
ひとの命はどうか知りませんが、私の命は地球より重いどころか、紙切れのように軽いと感じています。
こんな自分の命なんて、あってもなくても一緒じゃないかと思ってしまいます。(続き)
お答え
どんな人も、誰かと何かでつながっている、だから、ひとりぼっちな人は誰もいないとお釈迦さまは教えられているとお話ししました。
このつながりをずっと広げていくと、果てしない過去と、果てしない未来にまでつながり、そして大宇宙の隅々にまでつながるのだとも教えられています。
「ケシの実に大千世界(だいせんせかい)を入れても狭からず、広からず」
とお釈迦さまはおっしゃっています。
ケシ粒に大宇宙がスッポリおさまるということです。
小さいケシ粒に大宇宙がそのままおさまるなんて、普通に考えればありえないことです。
では、なぜ、お釈迦さまは、そのようにおっしゃったのでしょう。
ここにひと粒のケシ粒があります。
このケシ粒があったということは、親のケシの花があったということです。
親のケシの花があったということは、その親のケシの花があったということです。
その親のケシの花があったということは、その親の親のケシの花があったということです。
これをどんどんたどっていくと、きっと宇宙の始まりまで行きつくでしょう。
その中のどの代のケシの花が欠けても、このケシ粒は今ここにありませんでした。
今ここにあるケシ粒には、果てしない過去から、その時に至るまでのすべての歴史がおさまっていることになります。
次に、そのケシ粒は、やがて芽を出し、花を咲かせます。
その花は実となりタネを落とします。
そのタネはまた実を結び、新たなタネを大地にまくでしょう。
このように今、ここにあるケシ粒から、未来に渡ってどれだけの新たなケシの花を咲かせていくかわかりません。
もし、今、ここにあるケシ粒がなくなってしまえば、未来、花咲かせただろうケシの花は、決して現われることがないのです。
ですから、今ここにあるケシ粒に、未来生じるあらゆる可能性がおさまっています。
そして、今、ここにケシ粒が存在できるのは、大地があるからです。空があるからです。水があるからです。
では、大地、水、空がなぜ存在するかというと、この地球があるからです。
しかし、地球といっても、月やその他の惑星、太陽との絶妙な距離によって、生命が育まれる環境になっています。
では、その太陽系はどうして存在するのかと銀河系があるからで……
と広げていくと、ケシ粒の存在を大宇宙が支えているということになります。
ケシひと粒に、果てしない過去と、永遠の未来と、大宇宙がおさまっているから、ケシの実に大千世界を入れても狭からず、広からずとお釈迦さまはいわれています。
これは、ケシの実だけではありません。
私たちの命もそうです。
今、私が生きているということは、両親、祖父母……と先祖代々、数えきれない命のバトンがあったからです。
誰ひとり、欠けても今、私はここにいませんでした。
私が、呼吸をし、大地を踏むことができるのは、大気があり、水があり、大地があるからです。
大宇宙があるからこそ、この大地を踏むことができるのです。
ですから、私が今、ここに生きているということに大宇宙のすべてがおさまっているのです。
苦しいとき、寂しいとき、こんなに苦しいなら、生まれてこなければよかったと、自分を否定してしまいたくなることがあるかもしれません。
けれど、あなたという存在は、大宇宙と、その歴史と未来が全部おさまっているかけがえのない存在なのだよと、お釈迦さまはおっしゃっているのです。
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