あきらめの境地│人間関係が楽になる方法

この記事はこんな人にオススメ
  • いつもすぐに諦めてしまう方
  • 「諦めてたまるか」と頑張り過ぎる方
  • 頑張っているけど中々成果が出ないという方

岡本一志

今回の記事を読めば、「あきらめる」の本当の意味について知ることができます。

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執筆者:岡本一志

一般社団法人全国仏教カウンセリング協会代表
仏教の教えにもとづいたアドバイスをしている
著作に「心がほっとする仏さまの50の話」三笠書房
「心がすっと晴れる仏さまの伝えたかったこと」
など計5冊、累計35万部突破のベストセラー

 

YouTubeではもっと詳しく話していますので、ご覧ください。

皆さんは、「あきらめる」という言葉を聞くとどのようなイメージをもちますか?

・あきらめてはいけない!

・あきらめるのはよくないことだ!

というようなイメージをされる人は多いと思います。

日本社会では、まさにそのような固定概念が根付いてしまっています。

実は「あきらめる」という言葉は、仏教の教えからきている言葉です。

仏教の教えにある本来の「あきらめる」の意味を知って頂くと、人間関係がとても楽になります。

また、人間関係だけでなく物事をとても楽に感じることができるようになります。

今回の記事では、仏教で説かれる本来の「あきらめる」という言葉について書いてみたいと思います。

ブッダの説くあきらめの境地

仏教というのは、最終的に「あきらめの境地」へ導く為にあると言っても過言ではありません。

あきらめの境地とは、仏教の目的とするところです。

「あきらめる」という言葉は、

仏教では諦観(ていかん・たいかん)とも呼ばれます。

諦(あき)らかに観る、物事をあきらかに正しくみるという意味です。

「諦」という字は、「真実」「真理」という意味でもあります。

つまり、物事を道理や真理に基づいて諦(あき)らかに見ていくことが諦めるということです。

悩みや苦しみは執着の心

私たちは、物事を正しく見ることができると、様々な執着や苦しみを手放すことができます。

逆に、諦らかに観ることができないと、様々な想いや執着に苦しみます。

仏教の教えでは、我々の悩みや苦しみは執着の心が生み出していると言われます。

諦らかに観ることで執着や拘りといった、しがみついた想いを手放すことができます。

手放すことができれば、「大したことなかった」「そこまで拘るようなことでもなかった」というように、苦しみの原因は、その想いに囚われていたからなのだということがわかります。

ただ、実際にはなかなか手放せないという人も多いことでしょう。

そういった方は、物事をあきらかに見ることができていないからなのです。

では、諦らかに観るにはどうしたらよいのでしょうか?

諦らかに観る方法

諦らかに観る為のコツは、下記の3つです。

①できることとできないことを区別する

②なれるものとなれないものを区別する

③かなうこととかなわないことを区別する

①できることとできないことを区別する

皆さんの執着を今一度振り返ってみてください

・できないのに、できると思って「やろう!やろう!」と思って苦しんだ

・できるのに、できないと投げ出してしまった

というようなことで、苦しんでいたのではないでしょうか?

できることであれば、頑張ればいい。

しかし、できないことを一生懸命にやろうとして、「できない!できない!」と苦しんだ方もいらっしゃるでしょう。

できることとできないことを諦らかに観ましょう。

②なれるものとなれないものを区別する

なれるものとなれないものを諦らかに観ましょう。

なれないものはなれないのです。

なれない自分になろうと空回りした経験のある方もいることでしょう。

③かなうこととかなわないことを区別する

叶うわないことが、叶わないとわかれば、それこそ諦めがつくでしょう。

しかし、叶わないことに囚われて、それをずっと持ち続けてしまうこともあるでしょう。

かなうこととかなわないことを諦らかに観ましょう。

この3つの区別が、自分の中ではっきりとついたなら、

様々な我々の執着は、自然に手から放たれます。

そうすると、生き方がとても楽になることでしょう。

なまけとかしこいを区別する

できることをできないと投げ出すことを懈怠(けたい)と言います。怠けのことです。

できないことをできないと認めるのは、賢明なことです

この区別がついたなら、我々は生きやすくなります。

智慧│区別する賢さ

仏教からは少し離れますが、私の好きな言葉があります。

ラインホルド・ニーバー

変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください、変えるべきものを変える勇気をそして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい。

「ニーバーの祈り」より

変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを仏教で智慧(ちえ)と言い換えることもできます。

言葉で言うのは簡単ですが、それが難しいのです。

例えば、

人間関係において、ここまではできるけど、これ以上はできない、という区別があきらかについたなら、苦しむ必要はありません。

ところが、この区別がなかなかできないもの。

相手の人に対して、「もっとやってあげよう」と自分の限界を超えて相手に尽くしてしまうと、「できない」「疲れる」と辛い気持ちになります。

それがもし、できる範囲でやってあげたのなら、例え相手からの感謝がなくても、自分のできる範囲でできることをしたまでと、諦めもつきます。

一時の感情に入り込んでしまって、「もっともっと」「誰かのために」となれば疲れてしまいます。そして、続きません。

ここまではできるけど、これ以上はできないという区別がついていたならば、自分は限界以上にやってしまったのだなと、反省もできるでしょう。

人間関係で苦しむ原因は、ここまではできるという境界線を超えてしまうことです。

自分も疲れるし、相手に対しての不平不満まででてきます。

皆から好かれることも皆から嫌われることもできない

「自分は嫌われているのではないか?」と不安になっている方は沢山おられます。

お釈迦様は、「皆から好かれることも、皆から嫌われることもできないものだ」と仰っています。

人の評価はそれぞれです。褒める人もあれば、嫌う人もある。

誰からも嫌われたくない、みんなから好かれたいと、人の目が気になっている人は、

できないことをできると誤解しているから、苦しんでいるのです。

できないことをできると誤解しているところに苦しみが生じるのですね。

このようにできることとできないことを諦らかに観ることを、仏教では智慧というのです。

まとめ

いかがでしたでしょうか?

言葉で説明するのは簡単ですが、「あきらめる」には深い意味があります。

・できることとできないこと

・なれるものとなれないもの

・かなうこととかなわないこと

を正しく区別する智慧。

これをもって、物事をみていくことがわかれば、

人生の様々な苦しみが、とても楽になるでしょう。

そういう意味での、あきらめの境地、あきらめの智慧を仏教を通して学んで頂ければと思います。

 

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