生きている私たちにとって死んでいくことほどの大事件はありません
仏教では生きている私たちが死んでいかねばならない以上の大問題はないと説かれます。これを生死の一大事とも、後生の一大事」とも言います。
旅人が白骨(他人の死)を見たり聞いたりした驚きと虎と出くわした驚きとは、全く違うように私たちは、他人の死を見たり聞いたりしたときの驚きと、自分の目の前に死という問題が突き付けられたときの驚きとは全く違うのです。
「ポックリしねたらそれでいい」それ本当?
死という問題について話をすると、「死んだら死んだ時」、「ポックリ死ねればそれでいい」という声も聞こえてきます。
しかし、それは死ぬという現実を遠い先に追いやっているから言えることであって、いざ、死という問題がわが身の現実になればみんな死にたくないというのが本音ではないでしょうか。
こんな笑い話があります。
寺参りを欠かさないお婆さんは寺に安置されている阿弥陀如来に
「阿弥陀様、わしはつくづくこの世がいやになりました。今日も嫁が私をいじめるのです・・早く今晩でもお迎えに来てください」と愚痴をこぼす。
寺の小坊主は、
「あの婆さん、また、同じことを言っておる。よくもまあ飽きずに同じことが言えるものだ」といたずらをかんがえた。
いつものようにお婆さんが寺にまいって愚痴話を言うのを見計らって寺の本尊の真後ろに隠れる。
お婆さんが
「早く迎えに来てください」と懇願するのを聞いて、小坊主、声色を変えて
「わかった!婆さん、今晩迎えに行くからな!!」と叫んだ。
すると婆さん血相を変えて
「ひえー、ここの阿弥陀様は冗談も通じんわい」とあわてて逃げたと言います。
このお婆さんのように、口先では、早くこの世とおさらばしたいと言っても、私たちの本心は、死にたくないというのが本音ではないでしょうか。
太陽と死は直視できない
癌や、新型インフルエンザ、紛争、戦争、放射能汚染などは、どうして、国際的な問題として注目され、論議されるのでしょうか。
それは、これらの問題が、私たちの生命を脅かすからです。
つまり、私たちは、癌や放射能、戦争が恐ろしいというよりもそれによって 死ぬのが恐ろしいのです。
「死ぬ」ということはあまりにも大きなことなので、それをまともに見ることができません。
ラ・ロシュフーコーという文学者の言葉に、
太陽と死は直視できないというものがあります。
癌や、放射能汚染、戦争といった問題に向き合うことはできても、死そのものを直視することができないのです。
しかし、癌の特効薬が開発されても、インフルエンザのワクチンが準備されても温暖化問題が解決しても、安全でクリーンなエネルギー源が見つかっても人間は死ななくなるわけではありません。
背後に迫る無常の虎は一歩一歩、近づき迫っているのです。
この現実をごまかさず、見たとき、死は一大事であることが知らされます。
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