三通りの殺生罪について

三通りの殺生罪

一言で殺生と言っても、殺し方によって仏法では三通りに分けられています。それが

自殺(じさつ)
他殺(たさつ)
随喜同業(ずいきどうごう)

ということなのですが、それぞれどういうことなのでしょうか。

自殺とは自らの手にかけて殺すこと

最初の自殺とは「自ら手にかけて殺すこと」を言います。「自死」という意味ではありません。
漁師さんは魚を殺し、牛や鳥や豚の食肉加工場で働く人は、牛や鳥や豚を殺します。害虫駆除の仕事をしている人は、ネズミや害虫といわれる虫を殺します。このように、自ら手にかけて殺すことを自殺といいます。
多くの人は、牛や豚や魚の肉を「上手い上手い」と喜んで食べておりながら、直接、自分の手で命を奪うことは恐ろしいのか、直接生き物を殺す仕事や立場につきたがり人は少ないようです。
事実、一昔前までは、生き物を殺す仕事は けがれ仕事としてその仕事に就いている人たちは差別を受けてきた歴史があります。今でも日本の保守的な地域では、差別問題に苦しむ人もあります。
しかし、仏教から見れば、
「自分は直接殺していない、だから、罪は犯していない」と思うのは全く、我が身知らずなことなのです。なぜなら、他人に命じて殺させたのも、同じ殺生罪と説かれるからです。

他殺とは他人に命じて殺させること

他殺とは、
「他人に命じて殺させる」ということです。刑事ドラマに出てくる他殺という意味はありません。どうして魚や、牛や豚を殺すのかというとこれは食べる私がいるからです。害虫駆除の業者の方がどうして、ネズミを殺すのかというと「殺してください」と依頼する人があるからです。
肉や魚を買って食べる私はたとえ自ら手にかけて、牛や豚を殺してはいなくても業者の人に殺させていますから、他殺の罪を作っているのです。

映画:「ブタがいた教室」に思う

「ブタがいた教室」という映画があります。時は1990年7月。大阪の小学校で、いのちの教育の一環として、みんなで豚を飼い、その豚をみんなで食べることで食生活を見直そうという授業がありました。
担任の先生は、今は、みんな、パックの中に入っている豚肉しかしらない。豚という生きているものと、豚肉というものが全然つながらない。だから、最後は殺してみんなでその豚全部、丸ごと食べる。それぐらい責任もって一つのことができたらよいという思いで、その授業をはじめました。
その豚に、みんなはPちゃんと名前をつけます。そして、みんなで一生懸命育てます。最初の約束だったみんなで育てた豚をみんなで食べる日がやってきます。
食べるか、食べないか、真っ二つに意見が分かれます。みんなで泣きながら真剣に討論します。そして、Pちゃんは最後・・という内容です。
この映画を通して、一個の命の重さと、それを奪うことについて改めて考えさせられるのですが、よく考えてみると 一昔前は鶏とか豚とか家畜がどの家にもいて大切に育てながら、大きくなればそれを殺して食べるという葛藤に悩むということも多かったのではないでしょうか。

ところが、今日、見たくないものを見えないように加工された生活の中で私たちはたくさんの生き物を犠牲にして生きていることを実感できなくなっています。
自らの手で、殺さなくても、スーパーに行けば綺麗に加工されて切り分けされパックに入った、肉や魚が売られています。多くの生き物の命を奪いながら生きていることを、そのことを意識することも自覚することもなく、パッケージ化された人生を送ってしまっているのではないでしょうか。
むかついたから殺した
泣きやまなかった虐待した
死んでもほっておけば年金が入るからと死亡届を出さなかったと一個の命があまりに薄く扱われることも多い現代ですが、自分の命が他の命の犠牲の上に成り立っていることが見えなくなっていることと表裏なのかもしれません。

 

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