死んでいく時はひとりぼっち

日頃のご恩は忘れません、墓場までご一緒しましょう

お釈迦様は、雑阿含経というお経に、私たちの死んでいくときの姿をたとえで教えられています。
三人の妻と言われるたとえ話ですが、どんな話なのかをまず、紹介しましょう。

昔、ある金持ちの男が三人の妻を持って楽しんでいた。
一号夫人を最も可愛がって、寒いといっては労わり、暑いといっては心配し、ゼイタクの限りを尽くさせ一度も機嫌を損うことはなかった。
二号夫人は、それ程ではなかったが種々苦労して、他人と争ってまで手に入れたので、何時も自分の側において快しんでいた。
三号夫人は、何か淋しい時や、悲しい時や、困った時だけ逢って楽しむ程度であった。
ところがやがて、その男が不治の病床に臥すようになった。刻々と迫りくる死の影に怖れおののいた彼は、一号夫人を呼んで心中の淋しさを訴え、「一緒に死んでくれないか」と頼んだ。
ところが
「外のこととは違って、死の道連れだけは、お受けすることはできません」と、すげない返事に、男は絶望の渕に突き落とされた。
しかし、淋しさに耐えられぬ男は、恥を忍んで二号夫人に頼んだ。
「貴方があれ程、可愛がっていた一号さんでさえ、イヤと仰言ったじゃありませんか。私も真平ごめんでございます。貴方が私を求められたのは、貴方の勝手です。私から頼んだのではありません」
案の定、二号夫人の返事も冷たいものであった。
男は、おそるおそる三号夫人にすがってみた。
「日頃の御恩は、決して忘れてはいませんから、村はずれまで同道させて頂きましょう。しかし、その後はどうか、堪忍して下さい」
と突き放されてしまった。 男は一人ぼっちで死んでいった。
これはたとえですが、一体何をたとえているのでしょうか。

・男とは、私たちのことをたとえています。
・一号夫人とは、自分の肉体をたとえています。
私たちは、自分の体を大事にしています。暑いときは、エアコンを入れ、寒くなると暖房を入れます。風邪をひくと病院に行き、健康に気を使っています。
ところが、どんなに大事にしても、数十年の間だけです。死んでいくときは、眼も見えなくなり、耳も聞こえなくなり、指先一つ動かすことができません。
そして、死ねば焼いて灰にしていかねばなりません。どれだけ肉体を大事にしても、最後は別れていかねばなりません。

・二号夫人とは、お金や財産 地位、名誉のことです。
二号夫人は、他人から奪った夫人と説かれるように、私たちも、金や地位や名誉を奪い合っています。必死になって、競争し、限られた利益や、ポストを我さきと求めています。
中には、法律すれすれのことをやって自分のところに持ってくるという人もあるでしょう。
ところが、そうまでして、手に入れても、死んでいくときには、何一つ持っていくことはできないのです。
どれだけお金があっても名誉があっても、死んでいくときには何一つ持っていくことはできません。だから、すげなく男の申し出を断った2号夫人にたとえられているのです。
・三号夫人とは、家族、兄妹、友人のことです。
家族、兄弟、友人は、陰ひなたに私を支えてくれますが、どんなに愛していても、死んでいくときには別れて行かねばなりません。
愛する肉親を失うだけでも、大変な苦しみですが、死んでいくときは、全てと別れていかねばなりません。
たとえの中で、「村の外れまでご一緒しましょう」と言ったのは、墓場までは、着いていきますが、その先は、一人で行ってくださいということなのです。
これが、雑阿含経に説かれる、三人の妻のたとえ話ですが、深く考えさせられる話です。

 

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