身体で造る悪 殺生・偸盗・邪淫とは

体で造る悪・・殺生 偸盗 邪淫

十悪について解説してきました。ここからは、体で造る悪について説明します。
仏教では私たちの体で作る悪に

殺生(せっしょう)
偸盗(ちゅうとう)
邪淫(じゃいん)

この三つを教えられています。
殺生とは、生き物を殺すこと
偸盗とは、他人の物を盗むこと
邪淫はよこしまな男女関係です。
まず最初の殺生といわれる罪を見ていきましょう。

殺生罪

仏教では、生き物を殺す罪を殺生罪と言います。私たちは動物を食べるのを当たり前だと思っています。しかし食べられる動物たちは決して、人間に食べられるのが当然とは思っていないでしょう。
どんな生き物でも、死にたくないのは、私たちと変わらないはずです。船に上げられた魚がピチピチはねるのも、鶏が首を絞められてバタバタもがくのも、苦しいからでしょう。
人間とはなんと残酷なものかと強く呪って死んでいるに違いありません。
人間の命だけを尊いと考えるのは、人間の勝手な理屈で、お釈迦様は、すべての生命は平等であり 上下はないと教えられています。

生きていくためには仕方がないのではないでしょうか?

そんなこと言っても「生きるためには仕方ない」と思われるかもしれません。確かに、私たちは、殺生をせずしては生きていけません。
しかし、よく知っていただきたいことは「生きるために仕方ない」から、「やっていい」ではないのです。
私たちは生きるために仕方ないという理屈で、いつの間にかやってもいいにすり替えているのではないでしょうか。
「おいしく食べてやることが魚が一番喜ぶんだ」という漁師さんをテレビで見たことがありますが魚からみればこれほど自分勝手な言い分もないでしょう。手を合わせて感謝すれば、それで、帳消しになるかというとそういうものでもありません。殺されていくものから見れば、感謝されようがされまいが死にたくないのは同じです。

また、農作物に悪影響を与える虫を害虫といって、駆除します。害虫というと、その虫自体が悪い存在のように思えますが、単に、私たちにとって都合が悪いだけです。

都合の悪い生き物に、「害虫」のレッテルを貼り、駆除することがよいことだと疑問にも思わないのは、そのまま、対立国を悪と決めつけ、ためらいなく銃の引き金を引いてしまう心理と同じでしょう。

私たちは、生き物の命を奪わずしては一日たりとも生きていくことが出来ない罪深い存在です。
しかし、もっとおそろしいのは、そのような罪を犯しながら、相手を悪にして、自己の行為を正当化したり、そもそも、相手のためなのだとまるで善いことをしているようにすり替え、何の罪悪感も感じなくなってしまうところが、もっとおそろしいことです。

仏教ではこのような、悪を悪とも感じない心を闡提(せんだい)とも、逆謗の屍(ぎゃくほうのしかばね)とも説かれています。そして、その魂の救済をあきらかにされています。

 

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