- 宗教の意義について知りたい方
- 仏教が誰の為、何の為の宗教か知りたい方
今回の記事を読めば、仏教に関わらず宗教の真理について知ることができます。
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執筆者:岡本一志
一般社団法人全国仏教カウンセリング協会代表
仏教の教えにもとづいたアドバイスをしている
著作に「心がほっとする仏さまの50の話」三笠書房
「心がすっと晴れる仏さまの伝えたかったこと」
など計5冊、累計35万部突破のベストセラー
YouTubeではもっと詳しく話していますので、ご覧ください。
宗教とは
まず宗教とは本来、人のために存在します。
宗教の教えのために人があるのではなく、人のために教えがあるのです
それでは、なぜ宗教というものが生まれたのでしょうか?
それは私たちが様々な人生の不条理に苦しんでいるからです。
苦しみがない所に宗教は生まれません。
苦しむ人の為に宗教はあるのです。
みんな、生きていく上で、苦しんでいない人などおりません。
もしあなたが、今が幸せで苦しみなど感じていなくとも、
老いや病や別れなどの苦しみや、苦手な人と付き合っていかないといけないという苦しみが必ずあなたの身に起こります。
「苦しみ」がない人など、いないのです。
そして、そのように苦しんでいる人の為に、宗教は存在するのです。
教条主義(ドグマティズム)とは
しかし、そういった人の為の教えは、実は見失われやすいのです。
本来ならば、人の為に宗教があり、宗教の教えがあります。
しかし、
宗教の教えの為に人がある
といったように逆転した考えが起こることがあります。
これは非常に危険なことです。
「宗教の教えの為に人がある」という考えが進むと、どんどん人が犠牲になり、そしてカルト化やセクト化していきます。
本来、人を苦しみから幸せに導くはずの宗教が、宗教の為に人が犠牲になってしまっているのです。
そして、その為に沢山の人が苦しんでいます。
これらの危険性は、仏教に関わらず、宗教を知る上で、大事なところです。
こういった考え方を、教条主義(ドグマティズム)と言います。
教条主義(ドグマティズム)とは、
状況や現実を無視してある特定の原理・原則に固執する応用のきかない考え方や態度のことをいいます。
宗教にあてはめて一言で言うと、宗教の教え第一主義です。
説かれた教えだけが固定化してしまい、それに人が合わせようとする逆転現象が起きてしまいます。
例えば、人は様々な状況で苦しんでいるのにも関わらず、その宗教の教えや考え方を無理矢理押し付けます。結果、人はさらに苦しむことになります。
宗教において、非常に危険な考え方です。
仏教に関わらず、宗教の勉強をされる際には、このような考え方に陥らないようご注意ください。
仏教は誰のために存在するのか?
それでは、仏教はどうなのでしょうか?
本来仏教は誰の為にあるのでしょう?
仏教はあなたの苦しみが出発点です。
お釈迦様は「人生は苦なり」とおっしゃいました。
この世には、四苦八苦の苦しみがあります。
この苦しみの原因を解き明かし、抜き去ることが仏教なのです。
どんなことも、教えの背景を理解することが大事です。
「どんな人のために説かれたのか?どんな状況の為に説かれたのか?」
一つの教えのみを、全てにあてはまるのではなく、
その苦しい状況において、苦しみの原因をみつけて、その状況に見合った教えから
苦しみを抜き去るのです。
例えば、ここにある事件の加害者と被害者がいたとします。
仏教の教えは、決して被害者の為にあるのではありません。
被害者(傷つけられた人)も加害者(傷つけた人)も、共に苦しんでいます。
仏教の教えは、傷つけられて人の心に寄り添い、また傷つけた人の心にも寄り添って、
幸せへと導いてくださります。
お釈迦様が説く仏教の教え~イカダのたとえ~
お釈迦様は御自身が説かれた教えについて、どのように考えておられるのでしょうか?
お釈迦様は御自身の教えを、このように説かれております。
私の説いた教えも、必要なくなれば手放すべきなのです。
お釈迦様は、御自身が説いた教えに固執してはいけないと語っています。
ある時、ある場で、ある人に説いた教えなのであって、御自分にとって必要がなくなれば、手放すべきなのです、と仰っています。
このお話は「イカダのたとえ」と呼ばれています。
ここでは様々なお経にも登場する「イカダのたとえ」をご紹介しましょう。
ある日、お釈迦様が修行僧たちの前で教えを説いていると、ある修行僧がお釈迦様へ質問をしました。
「世尊(お釈迦様)よ、あなたはいつも全てのものに対する執着を捨てよと仰います。それでは、世尊の教えに対してはどうなのでしょうか?教えに拘ることは執着することになるのではないでしょうか?」
お釈迦様は答えました。
「良い質問です。イカダを例にとってお話しましょう。
例えば、ある旅の者が道を進んでいると、大きな川があった。
その者は、川を渡るか、川伝いに進むかしなければならなかった。
ところが川伝いに進むにしても、岩肌が突き出していてとても歩ける状態にない。
一方、川の向こう側は、草地も広がり、見るからに歩きやすそうであった。
向こう岸に渡ろうと考えるが、川は深く、流れも急であり、渡し舟もなかった。
旅人は川を渡る為に、イカダを作り、無事に渡りきることができた。
ところが、川を渡り終えた後に、その旅人が考えたことが問題であった。
せっかく作ったイカダを、ここに捨て去っていくのは惜しい。このまま持っていこう。
さぁ、修行僧たちよ、あなた方はどう思いますか?
イカダを惜しんで担ぎ歩くことが、このイカダを活かすことになるのでしょうか?」
修行僧は答えました。
「そうは思いません。イカダを置いていくべきです。イカダを活かしたことにはなりません。」
お釈迦様は話を続けます。
「では、どうすべきでしょうか?
この旅人が川を渡って向こう岸についたとき、どうすべきだったのでしょうか?
このイカダは荒い川を渡るのに、とても役立ちました。
イカダを持ち去るのでなく、イカダを杭を繋いで川に浮かべておくか、岸に拾い上げて置いていくなどすれば、誰かの役に立つのではないのでしょうか?
この旅人はイカダを置いて旅を続けることで、イカダは立派に用をなすのです。
イカダを持ち歩いても、旅人にとって重みになるばかりで、活かされはしない。
結局、イカダへの執着心を捨てれば、万事うまくいくのです。
修行僧たちよ、何事も執着しないことが肝心なのです。
例え、私の教えであろうとも、そこに囚われて執着してはならないのです。
ましてや、それ以外のものに執着してはならないことは言うまでもありません。」
最初に質問をした修行僧も、晴れ晴れとした表情でお釈迦様に合掌し、深々と頭を下げた。
このことから、
「必要な人の為に、必要なことを説いたことが教えである」ということがわかります。
守破離
これらのことを別の視点からお話してみます。
芸の道や武道でも、修業の過程を守破離(しゅはり)といわれます。
守
教えられたことをその通り実践できるようになること。武道などでいう「型」。
「型」を理解して、「型」を身につけることは非常に大事なことです。
破
「型」を身につけ、自分なりに変えてみる。アレンジしてみる。
離
教えられたことから離れて、独自のものを想像する。
何事も、基本(守)が大事です。どんな達人でも基本の「型」を大事にしています。
例えば、剣道で強くなりたいと思っている人がいたとして、基本(守)を極めるだけでは、なかなか試合には勝てません。
身に付けた型を自分なりにアレンジしてみる(破)ことも大切です。
そして、一旦「型」から離れて、オリジナルスタイルを確立していく(離)のです。
千利休から学ぶ守破離
千利休の言葉で
規矩作法
守り尽くして
破るとも
離るるとても本を忘るな
という言葉があります。
規矩(きく)作法とは、様々な決まり事や作法のことです。
守・・・・作法のことをよく知って
破・・・・離れていったとしても
離・・・・作法の心を忘れてはなりません
つまり、作法のことを勉強して、自分なりにアレンジしていき、型から離れていったとしても、その心を忘れてはいけないのです。
これを仏教の教えにあてはめると、
仏教の教えを深く学んで、その教えを説かれた心(どんな人の為に説いたのか)を忘れてはいけません
ということになるのでしょう。
お釈迦様の教えを手放したとしても、苦しみから抜け出し、幸せに導こうとする心を忘れてはいけないのです。
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